プロゴルファーの原点ともいえるのが高校時代。多くの有望選手を輩出する名門高校のゴルフ部監督は、その原点を知っている。有名プロとなった今では語られない、知られざるエピソードも数多い。高校ゴルフ部監督の回顧録をお届け。今回は、全国大会女子の部で2003年から前人未到の5連覇を遂げた名門・東北高校(宮城県)を2000年から10年間率いた川崎菊人氏に聞いた。(取材・文/山西英希)
■在学中からゴルフ同様に英語力も磨いていた
宮里藍や有村智恵ら女子を中心に数多くのプロゴルファーを輩出している東北高校ゴルフ部。「プロを育てるより人間形成の場」を念頭に指導していた川崎氏。現在は松山英樹や佐伯三貴らを輩出する東北福祉大学の女子ゴルフ部のコーチを務めている。高校生を10年指導する中で最も印象に残っている選手の一人に挙げたのは、やはり宮里藍。3年時に同校女子部初の全国大会優勝時の主将でもある。
宮里は高校3年生だった03年に「ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン」で優勝を遂げ、同年10月にプロ転向。“藍ちゃんフィーバー”が起こり、空前の女子プロブームを作った。国内で14勝、米女子ツアーでは9勝を挙げ、10年には日本人初の世界ランキング1位に輝いた。プロとしての活躍はあまりにも有名だ。
その宮里が入学式前に東北高校を訪れた際、校内の施設を案内した川崎氏は、ある行動に驚いたという。「当時は校内にインターナショナルスクールがあり、そこへ宮里を連れていったときのことです。元々人見知りする性格ではありませんでしたが、そこの生徒と普通に会話をしていました。もちろん英語ですよ」。インターナショナルスクール内では英語オンリーだったが、宮里は高校入学前に日常会話程度の英語を身につけていたわけだ。
「高校入学後はシーズンオフになると、放課後はインターナショナルスクールへ行き、授業を受けていましたね」と、この頃から世界を見据えてゴルフ同様に英会話を磨く努力を怠らなかったという。
■遠征先の宿舎は1部屋に6人でチームワーク強化
ゴルフでは“緑の甲子園”と呼ばれる全国高校ゴルフ選手権、その個人戦では1年時と2年時に連覇を果たした。団体戦でも1年時には同校過去最高の2位になる原動力となった。喜ぶ先輩とは対照的に宮里は悔しい表情を浮かべていたという。「その表情を見たときにいつかは同じ舞台で優勝するだろうなとは思いました」と川崎氏。予想どおり、宮里が主将となった2年後に東北高は初の全国大会優勝を飾る。「個人戦で勝ったときよりも数倍うれしいです」と当時の宮里は語っていたが、以来、東北高校は大会5連覇を飾ることになるが、その礎を築いたことは確かだろう。
実は、宮里が3年時につくった同校の伝統がある。全国大会へ行った際、旅館に宿泊するが、チームは6人いたので和室を2部屋あてがわれていた。それまでは3人ずつに分かれていたが、宮里は一部屋を荷物部屋にして、もう一部屋に6人全員で寝るようにしたというのだ。
宮里なりにチームワークを重んじたからだが、そのことでチームの結束力が高まり、全国制覇につながる要因の一つになったのは確かだろう。以来、同校ではこの部屋割りシステムが続いているとのこと。個人スポーツであるゴルフだが、チームとしてのまとまりを重視する宮里らしいエピソードである。
■宮里藍
みやざと・あい/1985年6月19日生まれ、沖縄県出身。父や兄(聖志、優作)の影響から4歳でゴルフを始める。中学3年時の2000年に「ダイキンオーキッドレディス」でプロツアー初出場。同年のサントリーレディスでは当時の最年少記録(14歳11カ月)で予選を突破(23位タイ)。東北高校進学後は、高校界のみならずプロの世界でも活躍。1年時に日本女子オープンは5位タイでローアマを獲得。高校3年時には「ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン」でアマチュア優勝を遂げ、同年10月にプロ転向。04年は5勝、05年は6勝を挙げ、当時の絶対女王の不動裕理と渡り合って賞金ランキング2位。06年から米国女子を主戦場とした。国内通算14勝、米国女子通算9勝。17年に現役を引退した。
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