このエントリーをはてなブックマークに追加

心優しいニーマン だからこその完全優勝【舩越園子コラム】

タイガー・ウッズが大会ホストを務める米ツアーのジェネシス招待で、チリ出身の23歳、ホアキン・ニーマンが4日間首位を守り通し、2位に2打差の通算19アンダーで米ツアー2勝目を挙げた。同大会で完全優勝を成し遂げた筆頭は1948年のベン・ホーガンだ。ニーマンは69年のチャーリー・シフォードに続く史上わずか4人目の完全優勝を達成した。

初日から毎日最小スコア記録を更新し、最終日を2位に3打差で迎えたニーマンだが、それでも完全優勝への道は険しく、決して楽勝ではなかった。

最終日、25歳のコリン・モリカワが6つスコアを伸ばして追撃をかけてきた。ニーマンと同組で回っていた24歳のルーキー、キャメロン・ヤングも落としては取り戻しと、大いに健闘していた。

一方で追われる立場のニーマンは6番でバーディチャンスを逃し、7番ではボギーを喫し、この時点で2位との差は1打に縮まった。しかし、11番のイーグルで再び差を広げ、「気持ちが楽になった。あれは大きかった」。

14番、15番の連続ボギーでニーマンの行方には再び暗雲が迫った。だが、ニーマンは最終日のスタート前も、このときも、「この試合をきっちり戦い終えることに集中しよう」と自身に言い聞かせたそうだ。そして、上がり3ホールをきっちりパーで収め、難コースのリビエラで勝利の味を噛み締めた。

初日と2日目をともに「63」で回り、36ホールの大会記録を4打も更新。3日目は「68」、最終日はイーブンパーの「71」。4日間、ニーマンが素晴らしいスコアを出し続けるカギになったのは、何より彼のパットだった。

ニーマンは屈指のショットメーカーとして知られているが、パッティングのランキングは、ほぼいつも3桁の順位だ。しかしリビエラのポアナのグリーン上では、ニーマンはまるでパットの名手のごとく、次々にカップに沈め、スコアを伸ばしていった。最終日こそ、短いパットを外す場面が見られたが、それもこれも、すべては「メンタルによるところが大きかったと思う」。

2018年にプロ転向したニーマンは19年にミリタリー・トリビュート・アット・グリーンブライアで初優勝を飾り、米ツアーで優勝した初のチリ人選手となった。だが、以後は優勝争いに何度も絡みながらも惜敗ばかり。「永遠に勝てないような気がしていた。長い道程だった」。

18番グリーン脇では、ニーマンと同じスペイン語を母国語とするセルヒオ・ガルシアやジョナサン・ベガス、カルロス・オルティスらが見守っていた。大観衆の中にはチリの国旗を掲げながら声援を送っていたギャラリーの姿も見られた。

「みんなが僕の優勝を喜び、こうして祝福してくれていることがうれしい。言葉がない」

ニーマンといえば、20年マヤコバ・ゴルフ・クラシックで白いリボンを選手たちに配り、寄付を呼び掛けたことが思い出される。生後1か月のニーマンの従兄弟(いとこ)が、脊髄性筋萎縮症という1万に数人の難病と診断され、命の灯を消さないための唯一の方法はゾルゲンスマという2億円超の高価な薬を注射することだと医師から告げられた。

その費用を作り出すため、ニーマンはその年の自身の2カ月間の獲得賞金全額を寄付。さらにバーディやイーグルを取るごとにそれぞれ5000ドル、1万ドルを寄付。周囲にも協力を呼びかけるため、白いリボンを自ら1番ティと10番ティに持ち込んで配り、クラウドファンディングでも寄付を募った。そのかいあって、注射に必要な費用が集まり、従兄弟は注射を受けることができた。

そんなふうに心優しく、誰かのために一生懸命になれるニーマンだからこそ、肝心な場面で集中することができ、それが今回の完全優勝につながったのではないだろうか。

そういえば、ニーマンは以前、「達成したい夢」をリストアップして、こう書いていた。「ショートゲームとパッティングにもっと前向きになる」「家を買う」「腹筋を鍛える」「もっとアボカドを食べる」。

少なくとも最初の1つは達成したと言えるだろう。やると決めたこと、抱いた夢を1つ1つ必ず実現していくニーマンの今後が楽しみでならない。

「おめでとう、ホアキン」

満面の笑みでトロフィーを手渡したウッズも、目を細めながらニーマンの勝利を讃えた。

文/舩越園子(ゴルフジャーナリスト)

<ゴルフ情報ALBA.Net>