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桂川有人が高校3年間を過ごしたフィリピンでの“ゴルフ漬け”生活「長いときは12時間コースにいた」

桂川有人は1月の「SMBCシンガポールオープン」で2位タイに入り、4位までに与えられる「全英オープン」への切符を手にした。今週いよいよ初メジャーに挑む23歳は、高校3年間をフィリピンで過ごしている。フィリピン行きを決めた経緯や、当時の生活について、本人に聞いた。

フィリピンといえば、古くは90年代から00年代にかけて国内男子ツアーで通算7勝を挙げているフランキー・ミノザや、最近ではフィリピン人の母を持ちフィリピンでゴルフの腕を磨いた笹生優花が思い出される。しかし、フィリピン経由で活躍している日本人選手はほとんど聞いたことがない。高校3年間という大事な時期に、なぜ桂川はフィリピンを選んだのか。

「僕はプロゴルファーを目指している家庭でもなかったし、目指せる家庭でもなかった。おじいちゃんも『アマチュアの方が楽しいぞ』という人だった。石川遼さんに憧れて、フィリピンならみんなに追いつけるかもしれないと思って、頑張ろうと決めました」

クラブチャンピオンの経験もある祖父の影響でゴルフを始めた桂川だが、経済的には裕福ではなく、中学3年生だった桂川少年は親の負担を減らしたいと考えていた。当時ジュニア料金で練習させてもらっていた愛知県のニッケゴルフ倶楽部甚目寺センターに、フィリピンに会社を持ち日本と行き来していた人物がいて、その紹介で単身フィリピン行きを決断。同時に将来プロになる意思を固めた。

日本に帰るのは、中部ジュニア、日本ジュニア、中部アマ、日本アマに出場する4回だけ。その往復料金はかかるものの、年2回のフィリピンのホームコースのチーム対抗戦に出ることを条件に、練習場のボール代もラウンド代もすべて無償。ゴルフをやるのにお金はかからなかった。「親に負担をかけずに、自分の好きなだけ練習できた」。

かつてツアークラフトマンでジャンボ尾崎のクラブを組んでいた人物が、フィリピンに移住して工房を営んでおり、桂川はそこにホームステイ。家賃などの負担もなかった。そんな高校3年間は文字通り“ゴルフ漬け”の毎日を送ることになる。

早いときは4時台に起きて、コースに並んでスタートの予約を取る。そして6時過ぎからラウンドを開始し、10時くらいには18ホールを回り終える。その後は練習、練習、練習。お昼ご飯を食べて暗くなるまで、ボールを打ち続けた。「長いときは12時間くらいコースにいました。アプローチとか含めたら一日1000球くらい打っていたかもしれないです。日本ではできないと思います」。疲れて帰ると、夜は7時か8時に就寝。「遅くても9時」には寝てしまう。そんな毎日だった。

一週間に1日のオフは、クラブを握らずに通信制の高校の勉強を一気に行う。ちなみに特待生制度で入った通信制のルネサンス豊田高校の学費は免除で、桂川が在籍していたときはゴルフ部もなかった。

フィリピン時代は外食も多かったが、コース以外のレストランは安かった。「イナサルっていうお店があったんですけど、そこのチキンが好きで、酸味のあるシニガンスープも好きでした。ブラッドスープっていうビーフをベースにしたスープもおいしいです。フィリピンの食事は大好きでしたね。いまでも食べたくなります」とうれしそうに話す。どこのゴルフ場の料理がおいしかったか、今でも覚えているという。フィリピンに行く機会があれば、ぜひ案内してもらいたいものだ。

高校3年生になると、アジアンツアーに挑戦するか、日本の大学に入るか、進路に悩んでいた。「高校3年生の日本アマで初めて日大の方に声をかけていただいた。ほぼ子どものままフィリピンに行ったので社会勉強もしたかったし、一番は体作りをしたかった」とゴルフの名門・日本大学に進学。大学4年間でしっかりトレーニングを積み、プロで戦える土台を作った。大学時代はJGAナショナルチーム入りを果たし、「日本学生」や「日本オープン ローアマ」などの数々のタイトルを獲得している。

大学4年生だった20年にプロ転向すると、ルーキーイヤーの21年には、下部のABEMAツアーで優勝。「ABEMAでの優勝が感覚的に残っていたので、レギュラーツアーでもすぐに勝てた」と、レギュラーにステップアップした今年は、4月の「ISPS HANDA 欧州・日本、とりあえず今年は日本トーナメント!」で初優勝と順調に出世街道を歩んでいる。

現在、国内男子ツアーではフェアウェイキープ率8位、パーオン率1位と抜群のショット力を武器に、賞金ランキング2位につけている。フィリピンで磨いた硬い地面でのショットや強風対策、そしてランニングアプローチが、どこまでゴルフの聖地、セント・アンドリュースで通じるのか注目したい。

<ゴルフ情報ALBA.Net>